Vol.460 09年7月11日 週刊あんばい一本勝負 No.455


納得できないことばかり

忙しいのか、ヒマなのか、自分ではにわかに判断できない。複雑な雰囲気が舎内に充満しているからだ。ひっきりなしに来客が訪れ、電話も鳴りっぱなし、なんとも忙しそうだが2階の自分の仕事場に戻ると、何もすることはない。前半の仕掛かり仕事はほとんど終了しているし、後半の仕事の「仕込み」もおわったからだ。終わったのだから、とっとと外に遊びにでも出かければいいのだろうが、これができない。ふだんからそうした「遊ぶ訓練」をしてないから、ダラダラ仕事場に垂れこめて、時間をつぶしてしまう。困ったものだ。

ところで村上春樹の『1Q84』だが、自分にはあの物語が「おもしろい」とはどうしても思えない。日本中が熱狂するベストセラーを「ほとんど理解できない自分」というのも悲劇的で落ち込むが、あのドラマを何度シュミレーションしても、必要以上に手の込んだ「漫画」にしか思えないのだ。漫画をバカにする気は毛頭ないが、簡単に何人もの人間が死に、非現実的な純愛が成立し、不用意に神様や救世主が出てきてしまう物語は、もともと苦手なのだ。

そんなおり絲山秋子の『ばかもの』(新潮社)という小説を読んだ。驚いたことに『1Q84』と物語の構成がどことなく似ている。この本は去年の話題作だ。気ままな群馬の田舎大学生と、強気な年上の恋人、主人公の同級生で新興宗教にはまりこむ女……愛おしいこの愚か者たちが繰り広げる青春純愛物語である。『1Q84』と同じような世界を描きながら、こちらは分量でいえば約5分の一程度、そして描かれている若者の喪失感や絶望、官能的な愛の交歓の密度は、村上ワールド以上(のような気がする)。物語としては、ほとんど無駄なく完成されている印象だ。こっちの物語なら何回読んでも感動できる、と思わせる深い読後感がある。もうけっこう、という読後感を持った「1Q84」とはこれも正反対。これはやっぱり読む側(私の)の感性の問題なのかなあ。

7月10日の秋田県内の新聞で報じられた「クマがカモシカを襲撃」した事件の「記事内容」には驚いたなあ。「シカ狩り」「子ジガをくわえて」といった見出しや記事が紙面に踊っていたが、カモシカはウシ科カモシカ目の動物で「シカ」ではない。どっちかといえば「牛」である。秋田県にシカはいない(少なくともこの数10年は目撃されていない)のだから、ニュース価値からしたら「シカがいた」というほうこそ「重要な事件」だ。クマが子ジカをくわえているのが目撃されれば、それは「幻のシカをクマが発見してくれた」というニュースにはなるが、その逆はない。こうした首をかしげたくなる記事が軽々と出てしまうのは問題だなあ。
(あ)

No.455

めぐり逢った作家たち
(平凡社)
伊吹和子

 「われよりほかに 谷崎潤一郎最後の一二年」は谷崎文学をほとんど読んでないものにも面白く読めた。文豪と編集者の関係が、いまなら考えられないことだらけで興味深かった。本書はその続編と言うか谷崎のほかに川端、井上靖、司馬、有吉、水上といった「大作家」たちも登場する編集交友録である。谷崎との関わりがメーンなのは変わりないのだが、なにせ大作家たちとのかかわりすべてが「谷崎源氏の編集者」という勲章がもたらした出会いである。谷崎のお付きの編集者だったことで、作家の側も最初から「畏敬を持って」自分の担当になってもらうという珍しい構造が出来上がっている。谷崎恐るべし。
 著者は京都生まれ。だから小説の中に登場する京都弁の会話の直しを任される。それがほとんど「細雪」の谷崎の京都弁と似てしまう。そこで水上の本を読んだ谷崎が、自分の登場人物の会話とよく似ていることに驚いて、著者に問い合わせてくる件などは、笑ってしまう。圧巻は有吉の章。有吉から深夜突然、人を殺した、と鬼気迫る電話がかかってくる。人を殺したので来てほしい、というのだ。もちろんここでの「人」とは小説の登場人物。だが本人はもう完全に人を殺した「気分」になり、パニックに陥っている。作家と言うのはすごいなあ、と感心してしまう。

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