Vol.474 09年10月17日 週刊あんばい一本勝負 No.469


誕生日・還暦・年金

誕生日をカミさんが祝ってくれると言って、寿司屋さんに連れて行ってくれた。
はじめて行く寿司屋さんで、珍しいこともあるものだと驚いたのだが、わたくし、還暦なのである。大きな節目だから、たぶんカミさんも奮発してくれたのだとおもったら、どうも自分の所属するサークルの忘年会の会場下見、という目的もあったようだ。なるほど。おいしい寿司屋さんだったが、いざ勘定の段になると「細かいお金がない」などとカミさんは愚図りだし、けっきょく自分のカードで払った。なさけない。

ま、それはともかく還暦である。たいした感慨もないのだが、こんな年まで同じ仕事を続けているとは、さすが予想しなかった。しなかったが、還暦になって別の仕事についている自分というのも想像していなかったから、ま、こんなものなのかも。

還暦になると年金が支給される。これは想定外だった。数ヶ月前、社保庁から支給の具体的な金額や時期の連絡があり、「ほんとにもらえるんだ」と、にわかに現実味を帯びた。と同時に、これもすっかり忘れていたのだが、10年ほど前、どうせ年金支給額なんかたかが知れてるからと、郵便局年金にも入った。その支給も還暦前にはじまった。額は微々たるものだが、なにせ生まれてから一度も他人さまからお金をもらうという経験をしたことのない「万年シャチョー」である。人様からもらう(もらうわけではなく戻ってくる、あるいは支給というべきだが)お金は掛け値なしにありがたい。

この年金支給が現実味を帯びたことで、つくづくわかったことがある。自分の預けたお金が返ってくるだけなのに、けっこう喜んでしまうのは、人様からお金を頂くという経験をこれまでしたことがないからだ。社会に出て40数年、かっこよくいえば大樹に依ることなく自分の糊口は自分で塗してきた。それが当たり前と思っていたし、好きな仕事をしているのだから、金の苦労はグダグダ言うまい、と決めて生きてきた。だから、なんとなく拾いもののボーナスのように感じてしまうのだが、そろそろ年金受給を既定事実として受け止め、それを繰りこんだ人生設計をする時期なのかも……。
(あ)

No.469

生きのびる からだ
(文藝春秋)
南木佳士

 またしても南木氏である。恐縮です。『草すべり』を読んでから、彼の新刊は必ず読む。書いていることはほとんど同じようなことなのだが、その文章の静謐でいながら強靭な力の魅力にまいっている。本書の中に次のような文章がある。〈身を開く練習には山を歩くのがよく、秋の休日、稜線でおにぎりを食べながらひなたぼっこをしていると、すこしずつばらけて大地に還ってゆきつつあるこの身の「ゆるさ」を体感する。生きて死ぬ者としての「わたし」〉。こういった一言隻句が心のなかにしみ込んでくるのだ。〈浅間山の土の上に生まれ落ち、ほとんどの人生をこの土の上ですごし、おそらくはこの土に還ってゆく身としては、山についてもう少し詳しく知っておく必要があるのではないか。なんとなく人生のゴールの見えてきた気のする五十代後半になって、にわかにこの山への興味が増してきた〉。自分の想いと重なるところが多いのだ。本書の最後に、「選考委員としての開高健」という文学と文学者について語った珍しい稿があり、ずっと開高健にあこがれていたことを告白している。開高亡きあとは芥川賞にも興味が失せた、と書いている。

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