Vol.588 12年2月18日 週刊あんばい一本勝負 No.581


スッポンで忙しい1週間を乗り切った!

2月11日 週末になったとたん快晴。今日は朝から「意を決して」近所の山へ。岩谷山という小さな山だが、急峻でハードな雪山だ。下りた先がユフォーレという温泉なので昼飯はそこ。夜は何人かの有志たちで事務所鍋宴会。昨夜は久しぶりの山行にコーフン、うまく寝付けなかった。この寝付けないという小心さも「自分の楽しみの一つ」とポジティブに考えることにした。苦しい山行を楽しいと感じられるのは、「生きている」という実感があるからだろう。

2月12日 書庫にあった「秋田の薬草」という30年以上も前に出した本を見つけて、友人が借りていった。とちらりと奥付をみると78年初版。なんと短期間に5刷まで版を重ねている。部数にすれはゆうに2万部は行っている。いやはや今ではとても想像もできない「事態」だ。出版や地方の世界に、こうした「勢い」が再びめぐってくることは万に一つもない、とだけは断言できる。それにしても5刷って……。

2月13日 Sシェフが「市民市場にスッポンが泳いでいる」というので急遽、事務所でスッポンフルコース。血は白ワインで、甲羅(のゼラチン)までしゃぶり、鍋は薄味にしてポン酢、雑炊は何杯お変わりしたろう。問題は夜で少々飲みすぎで胃もたれのため、なかなか寝付けなかった。2日目の夜も、寝不足のはずなのに今度は目がランランと冴え、まったく寝られない。スッポンが目に効くなんて初めて知った。とはいえ2日間完璧な寝不足なのに身体に疲れはほとんど感じない。やっぱり効いているんだ。ちなみに生きたスッポンの値段は1匹6千円。

2月14日 今週はあわただしい。ごくたまにだが1年の中でこんな週がある。新刊があいついで2本出る。飲み会が3回、週末はスキーとスノーハイクの連チャンで、読まなければならない原稿が2本。DM通信などの原稿も4本書かなければならない。忙しいのは嫌いではない。ヒマは怖い。でもこうも固まって行事や仕事が密集する意味がわからない。均等にバラけてほしいのだが、そううまくいかないのが仕事だ。スッポンのおかげで体力は大丈夫そうだが、気力がいまひとつ付いて行かない。

2月15日 いつもなら鼻歌まじりで書いてしまう愛読者通信や新聞の原稿、執筆者用アンケートのコラムなど、なかなか書けずに苦戦中。前ならものの10分もあれば大丈夫だったのに、もう3日間、ああでもないこうでもないと呻吟している。ようするに書きたいことがないからこうなるのだろう。じゃぁ書きたいことって何? ……いやだめだ、こんな風に堂々巡りをしているうちに締め切りはどんどん迫ってくる。いくらルーチン・ワークといっても毎年毎年こちらは年をとっていく。少しずつ能力も体力もフットワークも落ちていく。悲しいけどそれが現実だ。

2月16日 ネット書店は早くて便利で大助かりだ。ユーズド(古本)で買う頻度も高くなっている。先日、トラブルがあった。松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』という本をユーズドで買ったのだが、3色ボールペンで目がチカチカするほどびっしり線を引いている。小生も線引き派だが、人にあげるとき消せるように鉛筆で引く。この本は大学の講義録なのに、こちらが線を引く余白がまったくない。まるで使い古しの教科書だ。あらためて新刊本を買いなおした。

2月17日 2月はヒマ、という思い込みが強すぎ、飲み会やら打ち合わせ、週末の野遊びを詰め込みすぎてしまった。あたふたしている間に詰め込みすぎの1週間が過ぎていく。3月からはある程度忙しくなる慣習(恒例というかある種の予感)だが、それが前倒しで2月中旬からシーズン突入という感じだ。ようやく新しい年に入った、とでも言えばいいのかな。 

2月18日 金曜日の夜は近所の居酒屋で古くからの友人たちと一献。家周りの工事や車の送迎などで手伝ってくれる町内在住の人たちだ。彼らの話は面白い。水道工事や運転手の舞台裏から職人たちの生態、近所のヘンなオヤジの噂話まで、4時間があっというま。
(あ)

No.581

邪馬台国はどこですか?
(創元推理文庫)
鯨統一郎

いやあ、この本はおもしろかった。1998年に出た文庫が10年間で30版にもなっている。いまならもっと版を重ねているのかもしれない。バーで会う常連客たちが、丁々発止、邪馬台国の場所や聖徳太子の正体、明治維新の舞台裏やイエスの奇跡などについて語り合う、という構成の会話小説だ。文章はほとんどが会話体で、読者は本を読むというよりも彼らのスリリングな会話を盗み聴きしている臨場感を味わうことができる。この構成が小説としてまずは成功している。それにしても、日本人ならだれもが教科書的に知っている「魏志倭人伝」の読み下し文を、初めてこの文庫で読んだ。こんなに短い文章だったのか。著者も書いているのだが、当時の中国人は日本という「属国」をどのように見ていたのか、その命名からよくわかる。邪馬台国の「邪」にしろ卑弥呼の「卑」にしろ倭人の「倭」も、とてもきれいな意味をもつ漢字とはいえない。化け物か奇妙な生き物に向けられた蔑んだ名称である。中華思想特有の他を見下す世界観がよく表れている。これが文字を持たなかった民族の宿命で、1000年以上たった今も私たちは自分たちの歴史を先に文字を持っていた民族の「蔑称」から始めなければならないのだ。

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