Vol.618 12年9月22日 週刊あんばい一本勝負 No.611


芭蕉と酒田と新聞広告

9月15日 どんどんものが増えていく、という昔のような環境ではなくなったが、ちょっと油断すると資料という名の「紙ゴミ」はあっという間に増殖する。棚の天井に荷物は載せない、と決めているのだが、いつのまにか有名無実に。年2回、思い切って「捨てる作業」を実行する。物を増やさないのが空間をフレッシュで清潔に保つ唯一の方法だ。経験上これはまちがいない。今年は家の横に張り付いている不粋な倉庫を解体する予定だ。この倉庫はアウトドアの遊びグッズが入っている。これも整理してコンパクトに事務所2階に収納するつもり。事務所2階のカミ資料類や本は大量に処分する予定だ。

9月16日 標高差わずか200メートル。この200メートルを往復7時間半かけて登らなければならない山がある。十和田湖の外輪・白地山(1034m)だ。ほとんど登りはなくダラダラのアップダウン。十和田湖を観ながらのロケーションは抜群なのだが、歩行距離はなんと14キロ。きつくはないが、ゆるくもない。わが秋田にはこんなユニークな山がある。昨日登ったのだが、まだ病み上がりのせいか身体の切れはイマイチ。帰りの温泉で寒気と吐き気がした。それにしてもあまりにユニークで印象的な山なので、おもわず一句。「病み上がり 寝不足くわえて 白地山」。あッ、季語がなかった、お粗末。

9月17日 暑いのが元凶なのか身体の調子はイマイチ。9月後半にしてこの暑さは、さすが経験がない。いや不調といってもハードな運動をすると疲労が押し寄せてくる、という程度。日常をつつがなく送るには何の支障もない。身体の小さな変化に注意を払って日々を過ごすしかない。最近は本よりも音楽が聴きたいという欲求が強くなった。それもクラッシックがいい。これも何か身体からのシグナルかなあ。ある現代作家の本が面白かったのでネットのユーズドで既刊本を15冊、大人買いした。送料も入れて総額5000円弱。これが本15冊の値段(それも単行本)である。本は紙ゴミ? 本はもうビジネスの対象じゃないのかもね。

9月18日 ネットのユーズドで本が安く早く買えるようになったこともあり、事務所書庫の本はたまるばかり。それに加えて、これまで資料として集めてきた郷土史や歴史、料理、交通関係などの本を大量に処分しようと思っている。思ってはいるのだが、古本屋に売るのはしゃくだし、友人たちにただで持って行ってもらうには量が多すぎる。内容も専門的なジャンルのものが多いから、理想を言えば地域で私設の図書館などをやっている方にまとめて寄贈したい。のだが、そうした施設は意外に少ない。さらに公営施設への寄贈は手続きが面倒で、こちらがなにか悪いことをしているような気分になるのでイヤ。はてさて、どなたかいいアイディアはありませんか。あ、当方、子供向けの本はないので、そっち系はダメ。

9月19日 嵐山光三郎著『悪党芭蕉』と『芭蕉紀行』を立て続けに読了。一気呵成の読書の醍醐味だ。俳句に興味がなくとも引きづり込まれるほどにおもしろい。この短詩系文芸の背景にある古典や漢詩への驚くような素養もさることながら、職業としてのいかがわしい俳諧師の存在というのが印象的。死を覚悟した過酷な旅、そしてパトロンと衆道(ホモセクシャルのこと)、人口に膾炙した名句への衝撃的な新解釈……いやはや教科書的常識や日常に水をぶっ掛けられ、満腹になるほど楽しませてもらった。これだから読書はやめられない。もう「古池や蛙とびこむ水の音」なんて軽口を叩いて遊べなくなった。江戸のあの時代にペンネームが「松尾バナナ」って、名前からして普通じゃないもんね。「閑さや岩にしみ入蝉の声」が弟子の蝉吟への追悼の句だったなんて知らなかったなあ。

9月20日 久しぶりに山形出張。といっても酒田・鶴岡なので、まあご近所である。仕事を済ませて、まだ日の高いうちから「こい勢」というお寿司屋さんで一杯やりながらのどくろのあぶったお寿司。これがこの店の名物である。ハタハタや八つ目、ハマグリもうまかったなあ。お酒は「通ぶって」楯野川の「梅酒」。日本で一番おいしいといわれる梅酒である。寿司屋で梅酒というのも、すごいでしょう。夕方前にすっかり出来上がって夜の仕事前にホテルで仮眠。いい気分だったなあ。こんな日も必要だ。

9月21日 酒田では「リッチ&ガーデン」というホテルが定宿だ。ここの朝のバイキングは本当においしい。地元の野菜が主で、さすが「食文化の街・庄内」を標榜するだけある。、調味料もお米もみそも地場産の逸品ばかり。いつ行っても満席で予約の取れないイタリア料理店やフランス料理屋がある「東北の田舎町」って、すごいよね。ここにはもうひとつ、おいしい「香雅」という中華料理店があり、超お勧め。ひとりでなければ必ずここで宴会をするのが決まり。秋田にはこんな店が一つもないのは、どうしてだろう。私が知らないだけなのだろうか。

9月22日 明日(日)から断続的に1週間に3本の広告を打つ。毎日新聞一面38、河北新報全3、魁新報全3だ。多くの人から新聞広告の効果のほどを不審げに訊かれるが、長くこの商売をやってきてわかったのは「数字(売れ行き)だけで広告効果は測れない」ということ。広告には「物を売る」以外にもいろんな効用がある。そのいちいちをここで書く紙枚はないが、ま、そうとしか言えないから高いお金を払うわけです。新刊がなくても、だから新聞広告だけは打つ。静かな池に小石を投げたときのように、小さな波紋が広がるのを信じて。それでいいと思っている。
(あ)

No611

評伝 ナンシー関
(朝日新聞社出版)
横田増生

ネット書店・アマゾンやユニクロについてのルポルタージュで名を売った著者の本である。この2冊の本も読んでいて、じゅうぶん楽しめたのだが、なんとなく最後の詰めというか、「最初に答えありき」のスタンスが気になった。テーマの選び方や文体も正統派、丁寧で克明な取材も文句のつけようがない。でも何かもうひとつ、読後感に違和があった。それは本書も同じ。ナンシー関没後10年目にして書かれた評伝である。タイミングとしても申し分ない。先の2著と違い、著者自身の意見や見解をあまり入れず、第3者に語らせるという形で多くの人へ取材している。ようするに客観性の壁でナンシー像を塗り固めようとしている。そこは好感が持てるのだが、やはり「最初に答えありき」で、その正当性を証明するために躍起になっている。その必死さはルポルタージュの基本であり、説得力もあるのだが、でも、やっぱりちょっと、なのである。最初に答えありき、という立脚点を最後まで引きずってしまう。能町みね子さんというエッセイストも書いていたが、最初から「ナンシー関を神格化」してしまい、テレビの流行に何か気に入らないことがあるとすぐに「ナンシーだったらどういうだろう」と言いがちな、ある種のファン心理の代弁にしかなっていない、という弱さなのかもしれない。テレビ批評の世界で10年前に亡くなった人に頼るのは茶番だ、とまで能町は書いている。これが当たっているかなあ。

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