Vol.623 12年10月27日 週刊あんばい一本勝負 No.616


世の中、病んでいるのかなあ

10月20日 出張疲れを取り除くのは山しかない。と勝手に決めつけ、岩手・雫石町の葛根田地熱発電所側から千沼が原へ登る。秋田県の乳頭山の裏っかわにある池塘が美しい湿原だ。全員が初めての山。天気も良く岩手山や乳頭(烏帽子岳)もきれいに見えた。が、こんなに登りが大変な山とは知らなかった。3時間余かけても目的地にたどりつかず、やむなく途中で引き返してきた。紅葉はまだだった。キノコあり、大きな沼あり、落ち葉のクッションが気持ちいい急坂の連続。これで夜は熟睡できると思っていたのだが、夜半ものすごい雷と雨で、何度も目が覚めてしまった。そういえば山から下りた直後あたりから岩手山には巨大な雨雲がかかっていた。登っている最中に降らなかったのが幸運だ。

10月21日 4日間の東京出張の翌日は山登り。今週は結局ほとんどデスクワークらしきことをしていない。だから日曜日は日がな机の前に垂れこめている。この5日間、新聞を読んでいなかったので知らなかったのだが、映画監督の若松孝二さんが亡くなっていた。若松さんとはピースボートでご一緒し、その後も「無農薬の玄米を食べたい」ということで何度か秋田の無農薬玄米をお送りしたことがある。見た目とは違って懐の大きなやさしい人だった。お返しに送ってくる上品なお菓子や佃煮にも繊細な心遣いが感じられた。学生時代も彼の作品の自主上映会のようなものを企画しているから、ずっと身近に感じていた存在だった。こうして周りから有能な人びとが櫛の歯が欠けるように消えていくのか。合掌。

10月22日 今夏の猛暑のせいか紅葉が遅い。10月に入ってもう4度も山に入っているが里も山中もまったくダメ。山行の車中でも紅葉の話題はこの時期の定番だが、みんな嘆息ばかり。ところで先日、テレビで「紅葉(こうよう)狩り」と言っていたが、これってどうなの? 「紅葉」と書いて「もみじ」と読むんじゃなかったっけ。「もみじ狩り」ならわかるよね。「もみじのような手」っていうのもヘンだよね。紅葉のような手ってどんな手? 「カエデのような手」じゃないの。楓の語源は「カエルの手」だし……と、しょうもないことばかり考えている秋の夜長です。

10月23日 昨日は職場訪問とやらで市内の中学生4人の訪問を受けた。毎年何組かの小中高生が訪ねてくるのだが(出版という職種が秋田では珍しいため)、説明するガイドのこちらが、いつの間にか熱くなって大人たちとするような出版論をぶってしまい、後からおおいに赤面。そんな自分に嫌気がさして、学生訪問はしばらく遠慮してもらっていたのだが、やはりこんな時代(出版の大きな曲がり角)、ちゃんと若い人たちに実状を伝えたくて引き受けた。でもやっぱり、こりずに新聞記者や大人たちに語るのと「同じ言葉」で、熱く喋っている。もういやだオレ。子供目線でわかりやすく話すトレーニングなんてしてないもんね。

10月24日 バタバタしている。いや相変わらず本業は静かなままなのだが、決算とか新蕎麦飲み会とか料理教室、HPの新連載用の原稿書きや事務所の改修工事といった本業以外のことにあたふたしている。年をとると物事の優先順位も変わってきた。もう仕事絶対優先なんていう価値観はゆるやかにだが消えつつある。根詰めて仕事をして得られるものと、残りの時間を秤にかけて、それなりの優先順位を決めている。唐突だが、なんだか世の中は大きな曲がり角にきているような感じがする。声にはならない「静かなうめき声」がいろんなところから聞こえてくる。

10月25日 事務所の前のイチョウはまだ色づかない。葉っぱがまっ黄色になり、冬が忍び込んでくると、風で葉は飛び散り掃き掃除の日々になる。これがけっこう面倒だ。で、今年からは木々をネットで覆った。近所迷惑防止である。話は変わるが、昔、友人の陶芸家を支援しようと大皿を個展のたびに買った。最近は事あるごとにそれらの大皿を使っている。日常品として使うと美しさに磨きがかかってきて、いとおしく見えるようになった。遠くない将来、割ってしまう可能性も大きい。それでもいい。いやそれのほうがいい。イチョウも陶芸作品も、自然作品には違いない。

10月26日 もう週末か。たいした仕事もしてないのに時間だけは飛ぶように過ぎていく。今月出した本はある自費出版の増刷1点だけ。その代わりと言ってはなんだが、意味のわからない電話だけはよくかかってきた。秋田や教育界への不満を聞いてほしいというものから、幼稚極まりない企画の売り込み、「秋田は寒いから引っ越ししたい」という相談から、うちで出した本を「借りたい」という見知らぬ人からの申し出まで、まあ多士済済。うちは悩み事相談所ではない。書かれたものなら読むが、電話で人生相談されても困ってしまう。世の中かなり深刻に病んでいるのかなあ。
(あ)

No616

こんな日もあるさ
(文藝春秋)
上原隆

この人の本は、なんだかやっぱり気になって買ってしまう。処女作『友がみな我よりえらく見える日は』には本当に感動した。それでファンになったのだが、その後の本は内容スタイルはほとんど同じで、どんどん処女作の濃密さが失われ、薄まっていく、という印象が強い。それほど処女作のインパクトが強かったということなのだろうが、やはりノンフィクションの方法論や登場人物の人選の価値観が同じなのが、その元凶ではないのだろうか。新鮮味が薄れてしまった、という当方の勝手な事情によるものだが。本書も、やはりいつもと同じだった。テーマの骨格をなす「人選」はなかなかいいのだが、最初の数行を読むと結論がわかってしまう。それでも本を買ってしまうのは、上原ワールドのマンネリを感じつつも、それを愉しんでいるからだ。著者の人間の本質への独特のアプローチはユニークだ。そこに魅かれているのは間違いない。今度はどんな人物と会って、どんな切り口で話を聞くんだろう。その一点で読者(私)をつなぎとめている。もう一皮、オオバケしてほしい作家なんだけどなあ。もう、この方法が著者のトレードマークになっているから、難しいだろうな。

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