Vol.624 12年11月3日 週刊あんばい一本勝負 No.617


企画を考えるのが、めんどうくさい秋の空

10月27日 近所に20年以上通い続けている「和食みなみ」という居酒屋がある。この時期には「マイタケの土瓶蒸し」がメニューに加わる。これが秋の楽しみで、立ち寄る頻度も高くなってしまう。が、今年は「革命」が起きてしまった。友人のSシェフがその「土瓶蒸し」の家庭での作り方を教えてくれたのだ。なぜキノコを「蒸す」必要があるのか。そんなこと考えたこともなかったのだが、先人たちはキノコは煮た瞬間から味が劣化することを知っていた。キノコの芳醇な香りとシャキシャキ感を損なわずに調理するには、「蒸す」以外手はないのだ。Sシェフから調理法を教えてもらい、その理屈に納得した。こんど天然マイタケが入手できれば、思いっきり美味い土瓶蒸しをつくる予定。

10月28日 日本酒にお米、鍋物に紅葉、蕎麦もそうだが、秋の味覚や風物詩というのはいわば「寒暖の差」が生み出すもの。肝心の秋のこれも風物詩である「読書」。これも広義にいえば寒暖の差が生み出すものかも。夏は暑くて本を読む気にならないもんね。で、今年の読書の秋は、あいもかわらず本は売れない。どうやら、これはうちに限った傾向ではないようだ。本離れを電子書籍端末の本格的な販売競争を理由に挙げる人もいるが、理屈に合っていそうだが経験的に言って、そこではない。もっと大きな「抗えない流れ」ともいうべき潮流だ。それは空気のようなもので、今のところ誰もうまく感知(言語化)できていない。何かが終わりつつあるのは確かだが、なにが始まっているのかは、よくわからない。実感するのは、本が文化の王様だった時代は当の昔に終わった、ということ。王様からただの兵士に成り下がった。その落ちる速度はめっぽう早い。

10月29日 東北大震災関連の本には「印税は被災地に寄付」という表記をした本がけっこうあった。うまく言えないが、これってなんとなく偽善やインチキ臭いを感じない? なんか生理的にいや〜な気分になる。昨日読んでいた本に、ある著者は、編集者に「印税を寄付しましょ」と半強制的に言われ、「心の疾しさが消えるでしょ」といわんばかりの物言いに気分が悪かった、と正直に書いていた。自分たち編集者の取り分はそのままで、「オレがお前の代わりに送ってやるよ」と言わんばかりの編集者の態度は尊大極まりない。「顔に臭い息を吹きかけられたよう」と、その著者は証言している。自分のしたいことは自分の金でやる。それしかない。

10月30日 企画を考えるのが年々億劫になった。面白いアイデアは枯渇、時代にはついていけないし、未来をこれっぽちも予測できない。まあ、いいことはひとつもないのだが、プロの作家のほうは何でもアリだ。小説家の清水義範は、夫婦で行った外国旅行(パックツアー)だけで軽々と1冊の紀行本を書く(その何十倍も時間をかけて資料学習をするのだが)。最近ではノンフィクション作家・星野博美が自動車免許取得の日々を一冊の本にしてしまった(「島へ免許を取りに行く」)。どちらも面白い本だから文句はないが、小説ならともかくノンフィクションだ。大胆不敵としかいいようがない。いや企画の意外な盲点だったのかも。出版における企画やテーマは時代の空気に大きく左右される。その根底にあるのは「好奇心」だ。その好奇心のありどころが複雑多岐にわたり、もう田舎零細出版社のオヤジには読めなくなっているのだ。

10月31日 幼児に関する事件が起きると驚かされるのは、事件当事者の幼児たちの名前だ。「ココ」だとか「うらら」とか、はては「雄」と書いてライオンと読ませる親までいる。こうした命名をインターネットスラングでDQNネームというのだそうだ。「非常識、知識が乏しそうな、あるいは乏しい人」である親が、子供ものに暴走族や漫画、アニメのキャラクター名(光宙=ぴかちゅう)を好んで付けるようになった。その現象を「ドキュン」というのだそうだ。語源はよくわからない。平成は明治以来何度目かの名前の大転換期だそうだ。うちは代々名前は1字。奇をてらった命名は不可能だが、私の「甲(はじめ)」という名前(読み方)だって、昔はけっこうDQNだったんじゃないのかなあ。

11月1日 もう恒例となっている種苗交換会へ。今年の会場は能代市。例年と違うのはひとりではなくSシェフも同行してくれたこと。能代はSさんの生まれ故郷でもあり、食材にめっぽう強いSさんがいると、いつもの農業の祭典も2倍楽しめた。いろんな食材を買い求めたが(絞り大根やハム類、トウモロコシに豚バラ焼)、会場ではない場所で泥ネギを買ったのが一番の収穫だ。太くて大きくて甘い。これをざく切り、フライパンで焦げ目をつけ、醤油をかけ回すと見事な酒の肴に変身する。能代がネギの名産地だったことを知らなかった。
(あ)

No617

グローバリゼーションの中の江戸
(岩波ジュニア新書)
田中優子

この本にはかなり驚いた。ブームといっていい一連の江戸本だと思って読みはじめると、まず間違いなく痛い目にあう。本書には2点、大きな特徴というかキーワードがある。書名にも使われている「グローバリゼーション」という言葉と、江戸時代の前の人物である「豊臣秀吉」だ。「グローバリゼーション」という言葉は、著者によれば「人間同士が競争を肯定するようになる」否定的な立場から使われている。歴史的にたどれば、ヨーロッパの大航海時代あたりから本格的になるグローバル化という波に対し、アジアや日本(江戸)はどのような対応をしたのか、が本書の内容のメインだ。大いに勉強になる視点なのだが、ヨーロッパの大航海時代を江戸時代からの逆目線で見たとき、グローバルという現象の本質がよく見えてくる。豊臣秀吉に関する記述の多さも際立っている。江戸といえば徳川時代だから、これは意外だった。鉄砲の大量生産を可能にした秀吉が、いの一番に考えたのがグローバリゼーション=朝鮮出兵だった。秀吉は日本で初めてグローバル化という名の侵略戦争に手を染めた人物ということになる。この秀吉の蛮行が、いまの中国や韓国との軋轢を引き起こす元凶になっている、と著者は断じている。そこまで歴史を遡らないと見えない現代があるということを教えてくれた刺激的な本である。

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