Vol.655 13年6月8日 週刊あんばい一本勝負 No.648


体重の壁と闘いながら、もう半袖だ

5月30日 今日から東京。夕方、朝日新聞を定年退職したTさんを誘って「おつかれさま」の2人会。その前に仙台によりひと仕事。仙台も暑い。神保町では待ち合わせ場所の岩波ブックセンターでS社長にあいさつ。S長老はまったく変わらず元気満々。よくやるなあ。Tさんと昔一度だけ入ったことのある「兵六」で乾杯。2次会は山の上ホテルのワインバー。山の上に行くのは久しぶりだ。15年前は毎月のようにこのホテルに泊まっていた。久しぶりに神保町べったりの一夜。

5月31日 東京2日目。晴天で朝から暑い。昼は神楽坂の出版クラブのレストランで地方・小のK社長と昼食。今回の出張は飲み食いが多い。体重を増やさないように、意識的に野菜中心の食事で行くことを決めていた。ところが今日のランチは「ステーキ丼」。ま、今日だけ例外ということで。そのかわりサラダバーで山盛りのオニオンスライスをチョイス。このところずっと「玉ねぎ」にこっている。まるで健康雑誌の愛読者のようだが、血圧の高い友人が玉ねぎサラダを毎日食べ始め2週間後に大きな効果があった、と聞いたせいだ。血圧は130台だったのだが去年あたりから140台になった。ので渡りに船とはじめてみたのだが、なんだかもう血液がサラサラになった気分。もうこれだけで十分効果があった。健康って気分だもん。

6月1日 東京3日目。今日は1時から友人の会社の「25周年記念」のパーティ。業界の友人たちとまとめて会えるいい機会だ。突然、スピーチを終えた平凡社S社長から挨拶された。「おたくの山の本のファンでFさんの本はみんなに読んでます」とのこと。これにはビックリ。山歩きが趣味で東北は福島の山まで行ったことがあるそうだ。秋田はまだで、本で代替しているのだそうだ。こういうのってうれしい。パーティ途中で退席、新幹線で帰秋する。明日、山歩きがあるためだ。友人たちとの2次会に行けないのは断腸の思いだが、山歩きのためにはやむを得ない。病膏肓に入る。

6月2日 東京から帰ってきたのが夜9時過ぎ。出張の後始末もそこそこに寝床に入った。のだが、こういう時に限って雑念が頭をかきまわす。よく眠られなかった。朝4時半起床、というかほとんど寝てないまま、岩手県境にある東成瀬の東山(1116m)へ。初めての山だ。県南の生まれなのに今まで名前すら聞いたことがない。お天気にも恵まれ、野性味あふれる(登山道の荒れ具合や植林地にも手が入っていない)、知られざる山を楽しんできた。1千mの高さがあるのに登山者にほとんど知られていない、というのもすごい。何か理由があるのだろうか。確かにやぶは多いし、道もわかりにくいし、ブナもきれいとは言い難い。のだが、すっかり気に入ってしまった。ひとりで来るのは難しいが、こんど誰かを誘ってまた来てみよう。帰ってきたら晩御飯を食べるのも億劫なほど眠い。9時には寝床に入ったが、これまた不思議なことになかなか寝付けない。イライラする。

6月3日 いつのまにか5月も終わり6月に。好天が続いている。お米にとっては、ここ数日の天気は根を張る絶好の機会だ。それにしても5月は谷崎潤一郎『細雪』1本に費やされてしまった。大長編なのに書かれているのは4姉妹のうちの3女と4女のお見合いと恋愛沙汰のみ。すっかり疲れてしまったが、最後まで読み通させてしまう大文豪の筆力には脱帽。疲れまくったついでに、谷崎の後は『カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳・光文社文庫)を読みだしてしまった。読破まで何カ月かかるのか、自分でも恐ろしい。4部構成で全5巻。途中で挫折することも考え、2巻目までしか本は買っていない。これまでの読書経験から全巻を一挙に買いそろえると「安心して」未読になる可能性が高い。6月はドストエフスキーとの闘いの日々になる。

6月4日 ケチな性分なのだろうかペットボトル飲料をあまり買わない。飲まないわけではない。痛風持ちなので極力水分は摂るように心掛けている。山でも1・5リットルの水は欠かさず持ち歩く。日常生活でも自分で淹れたお茶をペットボトルに詰め替え、飲んでいる。「運動中は絶対に水を呑むな」という非科学的な理屈でしごかれた世代なので、世間の「当たり前のような風習(ペットボトルを買う)」には、ワンクッション置いて、ウサン臭さを感じてしまうアマノジャクだ。なのに目下唯一のゼイタクが1日1本飲む経口補水液「OS−1」(オーエスワン)だ。こちらは通販でダース買い。この甘塩っぱさがたまらない。生理水と同じ成分の清涼飲料水なのだが、ペットボトル1本200円。飲むたびにゼイタクだなあ、とため息をついている。

6月5日 暑さが本格的になってくるのと同期するように仕事も少し忙しくなりだした。出版の問い合わせや関連会社の来訪が増え、自費出版もポツポツと決まりだした。本の売れ行きは一年前から低調のままだが、ここにきて何かが少しずつ動き出しているような気がしないでもない。でも過剰な期待やタナボタの希望や不毛な展望は、まったく抱かない。そのへんは身にしみ込んでいるから浮かれたりはしない。しないが同じ下り坂ならおしゃべりしながら明るく朗らかに下りたい。楽しいことが大切なのだ。このところずっと晴天続き。それも気分を高揚させている要因かもしれない。

6月6日 仕事場の机の前の壁に「弐千円札」がピンでとめてある。飾っているわけではない。財布に入れて持ち歩くと千円札と間違って使ってしまいそうだし、なんだかいろいろメンドくさそうなので、マネーというよりオブジェかメモ用紙感覚で貼っている。って飾っているってことか。ある有名な文化人の講演でこんな話を聞いたことがある。この札が不評だったのは、ロイヤルファミリーのポルノ(源氏物語のこと)を堂々と国のお札のデザインに使ったことで、外国人からブーイングがあったため、だそうのだ。源氏物語は見ようによっては確かにポルノかもね。もう誰も覚えていないだろうが、念のためよく札をみると右下に紫式部の自我像、左側に2名の男性がいて十五夜のスズムシがどうしたこうしたという文章が重なっている。もうそろそろ飾るのにも飽きてきたので、札の処分を考えている。捨てるわけにもいかず、頭を悩ましている。

6月7日 ここ1カ月、押しても引いても体重が落ちない。ばかりか油断をすると1キロは軽く増えている。増えた翌日は必死にカロリー制限するのだが、これが結構しんどい。去年の11月から10キロ減(最終的には15キロ減)を目標にダイエットをはじめたのだが順風満帆に4カ月目で目標をクリアー。したつもりだったのだが以降はずっと9キロ減のあたりをウロウロ。この頃は朝起きたときの身体の軽重でコンマ台まで体重計の数字を当てられるようになった。10キロから11キロの間には目に見えない壁があるのはまちがいない。漢方の便秘薬の力も借りているのだが、どうしてもダメ。ここを超えさえすれば光が見えてくるのになあ。
(あ)

No648

宗教はなぜ必要なのか
(集英社インターナショナル)
島田裕巳

年をとると宗教にいやおうなく興味がわく。死が近いことと関係があるのだろう。著者はオウム事件のときマスメデイアにパージされ長い間、言論の世界から消えた。中沢新一や吉本隆明と同じようにオウムに友好的な記事を書いたためだ。「世間」もオウムと同じくらいも怖い、ということをこの事件は教えてくれた。その島田が近年、完全復活した。正直言って当時は、TVに間抜け顔をさらしている文化人、といった印象しかなかったが、消えてはじめて彼の重要性(すごさ)が分かった。復活してからの活動は見事としか言いようがない。「葬式は、要らない」「浄土真宗はなぜいちばん多いのか」「新宗教儲けのカラクリ」「脱しきたりのススメ」、そして本書。みんな買ってしまった。絶妙の書名とも相まって、のぞかれているように(私が)読みたいと思うテーマの本を書いてくれる。人々が宗教に期待するのは「貧・病・争」からの解放だ。仏教を広く浸透させた歴史の骨格は「ご利益信仰」だ。その始祖は円仁の念仏行で、それを完成させたのが空海の密教だ。密教は神秘的な手段(パフォーマンス)をもちいることで現実を変容させる力を持っていると考えられた。それまでの仏教では考えられない「ご利益」を宗教にもたらすことになった。宗教に興味あったが密教の意味がわからなかった。ようするに信仰をご利益に変えるためのパフォーマンスが「密教」だったのだ、なるほど。

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