Vol.674 13年10月19日 週刊あんばい一本勝負 No.667


仕事・山禁・郷愁の日々

10月11日 まるで「ハレ」と「ケ」が交互にくるような毎日。落ち込んだり喜んだり1日交代で繰り返し。うれしい日は、PCをつつがなく作動させた日だ。倉庫整理など肉体労働に打ち込んだ日も気分はいい。経理も受注テーブルも注文返品もそつなくこなせると自分がすごく進歩した高揚した気分になる。逆に1日中落ち込むのは、PCをうまく使いこなせず途中で仕事が「バグ」してしまった日。いずれにしてもPCの問題がほとんどだ。ここが課題だ。PCがうまく働いてくれないと不安と焦燥でパニクってしまうのだから、ほとんど子供。理系の勉強をちゃんとやっておけばよかったなあと悔やんでばかり。もう遅いのに。

10月12日 3連休はずっと仕事。言わずもがなのことだが、仕事、仕事、仕事。ちょっと息が抜けるのは倉庫整理か。売れない在庫本を段ボールに詰め「廃棄処分」にする。本は重たいので重労働だが「捨てる」という行為がカタルシスだ。もう見境なくどんどん捨てる。100冊単位で捨てる。ほとんど本をゴミ扱いする。このカタルシス。その行為にどんどん酔っていくジブン。歯止めが効かない。段ボールの山はみるみる大きくなっていく。カイカン! 毎週水曜日、その「紙のゴミ」をある施設で回収に来てくれる。なんと無料だ。施設の雑収入をえるために紙ゴミを集めているのだ。もちろん、いい加減な業者に本の横流しをされると問題なので厳重にチェックはしている。

10月13日 3連休中に2回、山行が入っていたのだが、どちらもキャンセル。精神的な余裕がない。気持にゆとりがないのに山に登っても楽しくない。それでも事務所に閉じこもっているとストレスはたまるばかり。この頃は積極的に昼の街に散歩に出かけている。駅前でいろんな人たちが交錯するさまを眺めていると、自分の悩みや苦労がちっちゃなものに思えてくる。娑婆の空気に触れることは大切だ。昨日、義母の看病に来ていたカミさんの妹が東京に帰っていった。長い間、ご苦労さん。彼女がいなかったら我が家は離婚の危機。どちらも超多忙なときに義母が入院してしまったからだ。本当に助かった。しかし3人家族の間、食べるコメやゴミの量も半端じゃなかった。これからまた静かな2人の生活が始まる。

10月14日 3連休は「山禁」で仕事をクリアー。夜は録画していたテレビ番組を観る余裕も。これがいつ不安にとってかわられるか一寸先は闇。まあ、どうにかここまできた。今週は水曜日に休みをもらい紅葉の栗駒縦走の予定だったが、台風で中止。土日は混んで駐車場も満杯になるたえめ週日にしたのだが、残念。代替策を思案中だが、やっぱり仕事しているのが無難か。駅前映画館でジャンヌ・モロー主演の『クロワッサンで朝食を』をやっているので観に行こうと思ったら11日で終了していた。あと観たいのは『世界一美しい本を作る男』だが、秋田での上映予定はないようだ。東京にも当分行けそうにないのでDVDになるのを待つしかないか。

10月15日 少しずつ,本も読めるようになった。困ったことにまだ「本慣れ」してないので、読みはじめると10分で眠くなる。小学生かお前は! それと近い未来(といっても数カ月先)のことをあれこれ前向きに考えられるようになった。数日前の落ち込みを思うとひどく前進。自分で何もかもやることに身体が順応しだしたこともある。遊びに来てくれた友人たちに、かたっぱしからいろんなことを「尋ねる」ようになったのも進歩だと思う。PCの操作法から鍵の売り場、煤払いの方法まで、ちょっとでも知りたいと思ったことは素直に訊く。検索はダメ、会話して知ることが大事だ。だって人に相談すれば必ずその人が手伝って、助けてくれる。

10月16日 ゴミの日、大量の服を捨てた。ものを捨てられない性質で30年前の服を今も着ているし、着ないものも大切に箪笥の肥やしにしている。これってちょっと異常。何よりも精神衛生上悪い。体重が一番肥っていたころより20キロは落ちているのに当時のデブ服を後生大事にしまいこんでいるのだから、「たち」というのも怖い。そんなこんなで心身ともダイエット、をスローガンに清水の舞台から飛び降りた。大げさと思われるかもしれないが、45リットルゴミ袋6個の大英断。そのほとんどがクリーニングしてあるシャツやズボン類。もらってくれる知り合いがいれば処分も気持ちいいのだろうが、いまどき中古の服をもらって喜ぶ人は少ない。これしか選択肢はなかった、と思うことにしよう。

10月17日  環境の激変もあるが、自分は何を目指してこんな孤独な戦いを楽しんでいるのだろうか、とフト思う。それを言語化するのはボンクラ頭にはハードルが高すぎるが、昨夜、話題になっている『里山資本主義』を読んでいて気がついた。あれッ、これってかなり自分の考えに近い、と。興味ある人には本を読んでもらうしかない。サンプルが広島なので秋田の自分と比較しながら読むのはしんどいが、反グローバリズムの「安心の原理」を基軸に、新しい社会のモデルをつくろう、という論理だ。なるほど。これは自分のやろうとしていることとよく似ている。昨夜は久しぶりのモモヒキーズ「新蕎麦シャチョー室宴会」。Sシェフの蕎麦はもうプロはだし、安定感いやましてきた。蕎麦も肉も酒もたっぷり堪能した。

10月18日 倉庫整理のアルバイトに来ていた学生の話を聞いて、ちょっとびっくり。彼が小学生の頃、夢中になっていたのが小舎刊「秋田おそがけ新聞」の鈴木メタローさんのブログだったそうだ。併せてあこがれのスターは「山さ行がねが」というブログの平沼君だったそうだ。いやいや平沼君も秋大生の頃はずっと無明舎でアルバイトをしていた青年だぜ。いま平沼君はTV「タモリ倶楽部」に「廃道研究家」として常連出演しているそうだ。世の中広いようで狭い。それにしてもその頃(6,7年前)、彼らに熱中していた小学生が、いまは大学生になって無明舎の倉庫で働いている。なんだかクラクラする。時空は矢のように飛び去り、郷愁はブーメランのようによみがえる。
(あ)

No667

書籍文化の未来
(岩波ブックレット)
赤木昭夫

 サブタイトルは「電子本か印刷本か」とある。これでは読まずばなるまい。っていうほど実は興味はないのだが、出版業の片隅で生きるものとしては、やはりなにかと知識は蓄えておくに越したことはない。基本的には電子本になったら自分は紙と共に去ろう、と思っている。だからどちらに転ぼうと大きな問題ではないのだが、ほんとうに電子本の時代は来るのだろうか。そのへんの疑惑は消えないままだ。クーベルタンによって「四二行聖書」が印刷されたのは1455年。これが本の第一次革命だとすれば、90年代末から現在起きている「本の電子化」は本の第2次革命と呼ばれている。この間、500年ものタイムラグがある。世界にはランダムハウスをはじめペンギンやハーパーコリンズ、マクミランといった巨大な6つの出版社がある。その多くはアメリカに拠点を置くと思っていたのだが、その6社を所有する親会社のうち5社はすでに非アメリカ系資本によって経営されているのだそうだ。アメリカの資本家が手を引いたのは、「出版は利益率が低く投資に値しない」だからだ。いかにもアメリカ的発想である。このあたりはすんなり納得できるが、著者の論調はどちらかというと性急な電子化へ警告を鳴らしたい、というスタンスのようだ。電子本の利点としては、入手の容易さ、可搬性、更新可能性、、検索容易性、テキストの相互参照可能性やマルチメディア性を上げてはいるが、電子本派だから革新、紙派だから保守、という色分けは不毛だという。500年かけて培われた書籍文化は、あんがい侮れないような気もするのだが。

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