Vol.677 13年11月9日 週刊あんばい一本勝負 No.670


ようやく読書や映画を見る余裕がでてきたかな

11月3日 雨の中、森吉山に登ってきた。初めてのコースだったせいか、なんだか初めて登る山のような新鮮な気持ちで、いい汗をかくことができた。途中で秋田高校の山岳部とであったので「9日、竹内さんが来るよ」と声をかけると、ギョッとしたような顔で「行きます!」と返事。反応が早い。こういう若者に会うと希望が湧いてくる。行きの車中で同乗していたNさんが、カーステレオで流していた曲を「山登りにぴったりの曲ですね」としきりに褒めるのでCD名をチェックしたら、シュトラウスの「アルプス交響曲」 だった。自分のCDなのに気が付かなかった。さすが元美術教師、感性が研ぎ澄まされている。これで今年の秋の山は終わり。あとは雪山と遊ぶ日々になりそうだ。

11月4日 旗日だが仕事。学生アルバイトが来て倉庫整理の日だ。もうすっかり定着した作業だが、これも雪が降るとできなくなる。家の風呂やトイレのリフォームは終了したが、なんだかまだ慣れないせいか、どうにも使い勝手が悪い。もう30年以上使ってきたものが一夜にして別物に代わるのだからしょうがないか。ここ数か月、激動の日々を送ってきた。それも今週でほぼあらかた終着に向かいそう。忙しかったし、苦しかったし、自棄になったし、逃げだしそうになったし、何かにすがりたかったが、どうにか乗り越えた。自分にはとても無理だ、と思っても1歩1歩足を前に出していけば必ず頂上に着く、という山登りの精神がどこかに生きていたような気がする。山とそこに導いてくれた友人たちに感謝しなければいけないな。

11月5日 デジタルがこれからの社会をどのように変えるのか、弊害はなになのか。そこを考察した本を読んだ。小説家・楡周平が書いた『「いいね!」が社会を破壊する』(新潮新書)だが、タイトルがなんとも扇情的すぎる。売らんかなの舞台裏が透けて見える。「週刊新潮」連載中のタイトルは「考えない葦」だ。こっちがずっと内容を言い当てている。ネット社会がどこへ向かい、既存の産業をどう変えていくか、小説家の想像力と取材力を総動員した本だ。薄っぺらな言説の徒やネット評論家では書けないないようなのは、著者本人があのアメリカのコダックの倒産を現場で経験した人なので説得力が違う。彼の小説『虚空の冠』は日本のメディア王の生涯を伝書鳩を伏線にして描いたものだが、たぶんこのときの調査や取材が、この本に生かされたのだろう。

11月6日 何もかも自分でやる仕事のサイクルにずいぶん心身とも慣れてきた。と自惚れていたのだが、その鼻をへし折られてた。昨日、税理士が来て、丸2ヶ月間、源泉処理した「預り金」を税務署に納めていないことを指摘されたのだ。昨夜遅くまで書類を作り、どうにか修正申告。同じく受注管理のほうも油断から思わぬミス続きだ。でもこちらはPC初期段階のプログラミングから千葉にいる弟が深く関わって統括している。だからまかせっきりにしていたのだが、自分でやってみて、弟の負担が並大抵でないことがわかった。今はもうまったく頭が上がらない。いずれにしても多くの人に支えられて無明舎はかろうじて立ち続けてきたことがよくわかった。それにしても一人で仕事をするようになってから急に仕事が忙しくなる、というのは何たる皮肉か。

11月7日 夜の散歩は真っ暗な田んぼの中を歩くのでヘッドランプ着用だ。1時間以上点けているので電池はすぐに消耗する。そこで手回し発電のモンベルのヘッドランプを愛用。散歩の最初の5分間はひたすら手回しで、足よりも腕が疲れてしまう。でもこれって災害時には確実に役にたつツールだね。それとPCにすぐ溜まってしまうメールの類は、こまめに削除するタイプだが、これもある人に「PCの容量って大きいんです。メールで使う容量なんて0コンマ以下の数字」といわれた。メールごときは溜まっても何の影響もないのだそうだ。日常で使っている道具類の基礎的な知識って、大切だよね。

11月8日 佐賀藩士が剣術修行のため全国を旅した記録を読み説いた『剣術修行の旅日記』(朝日新聞出版)という本を読んでいたら、秋田の記述もあった。国見峠を越え小安に入り、そこから本荘藩に出向いて「道場荒らし(?)」をしている。なんとなく悪い予感がしたのだが秋田といえば酒、このへんの記述があるのでは、と予想したらどんぴしゃり。酔っぱらった僧侶の話が出てきた。当時は剣術を学ぶのはステータスで武士だけでなく僧侶までが道場通いしていた。これも驚きだが、客人である九州の藩士をもてなすため僧侶は旅籠まで押しかけ酔っぱらってヒンシュクを買う。ま、江戸も平成も今の秋田県民とさして変わっていない、ということか。 そういえば今日は夕方、録画していた映画『パピヨン』を観た。何の気なしに見たのだが、おもしろい映画だったなあ。
(あ)

No670

知れば恐ろしい日本人の風習
(河出書房新社)
千葉公慈

 ビロウな話で恐縮だが「トイレ本」と自称する本がある。文字通り用を足すとき読む本で、この本の選定にはけっこう気を遣う。飽きのこないもの、おもしろくてためになるもの、短くて読み切りであること、といった条件が付くからだ。本書はその「トイレ本」である。しかし、やっぱり命名が良くないなあ。訳せば便所本で、まるでクソのような本、という誤解を与えかねない。本来は便所で読んでも退屈しない面白本というニュアンスで、寝床で読む本よりも「重要」な本だ。寝床なら面白くなければ、つんどく本からいくらでも自由に交換できる。本書は年中行事やタブー、昔話や子どもの遊びなどに潜んでいる「恐怖」の謎解きをする本。署名に惹かれて本屋で買ったのだが、これは収穫の多い本だった。視野が日本文化全般に及んでいて言葉の原型(語源)への考察も鋭い。そのため謎解きに説得力がある。名前からもわかるように著者は住職であり、大学で教鞭も取っている。博覧強記というのはあたらないが、語源に関する執着がものすごい。3章の子どもの遊びやわらべ唄のルーツに潜む「恐怖」をたどる論考は解釈が独創的で本書のハイライトだ。古来の風習やしきたりを、現代の暮らし方や生き方と重ねあわせながら日本人の精神性にまで迫る労作だ。

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