Vol.684 13年12月28日 週刊あんばい一本勝負 No.677


いつになったら他者の痛みをわかる大人になれるやら

12月21日 食べ物の性向で政治思想を読み解く「ヘンな本」がでた。あの名著『ラーメンと愛国』を書いた速水健朗『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)。食べるものを選べば政治思想がわかる、という「ガマの油売り」的内容だが、中味は新感覚の政治論、そう目新しいものではないが、まじめな日本人論だ。ちょっと書名があざとい気もしないでもないが、発想というか着想がいい。最近の本では椎名誠さんのエッセイ『殺したい蕎麦屋』という書名が秀逸で買ってしまった。読まなくても書いている内容が目に浮かぶし、さりげなく自然態を装っているが総じて椎名さんの本のタイトルは優れている。これは自分で書名を考えているからではないだろうか。今読んでいる本でいえば勢古浩爾『定年後のリアル』というのもいい。けっこう書名だけで本を買ってしまうのはネット購読のせいかしら。

12月22日 忘年会の余波でジリジリと体重が増えつつある。危険な兆候だ。思い切って3日間ぐらい集中的ダイエットをしたいのだが、忘年会は容赦なく続く。暴飲暴食はしたくてもできない年になりつつあるが居酒屋ではカロリーの高い(ふだん食べないあぶらっこい)ものを注文してしまう。ところで若者言葉なのだろうが、「飲み会」のことを短く「のみ」というらしい。この言葉はいや。語感が下品なだけでなく酒に対する敬意が感じられない。洗濯物を取り込んで来い、的な蔑みのニュアンスさえ感じる。何でも短くすればいいってもんではない。今の若者にとっては酒を飲んだり宴席で騒ぐのは別に「ハレの場」ではないのかもしれない。こちらは人生のほとんどを「うまい酒が飲みたいがために一生懸命仕事をしてきた」世代だ。この短縮言葉に感じるギャップというか違和感は小さくない。

12月23日 毎日の仕事を混乱もなく、まるで何十年もやってきたかのように、淡々とこなせるようになった。というとかっこいいが、どうにか環境に慣れ、トラブルなく日々を過ごしている、といった程度。よくよく考えてみると、この3カ月間、デスクワークはともかく新刊の編集作業はほとんどやっていない。増刷が1本あったきり。事務見習い時期に面倒な本を作る仕事がなかったのは幸運だが、その反動が徐々に現れはじめた。来年早々5本くらいの新刊原稿がまとまって入ってくる。これはちょっと恐怖だ。やっぱり人員補充が必要か……としばし弱気になるが、いやいや、この態勢でもう少し頑張ってみよう、と思い直す、穏やかな年の暮れ。

12月24日 読む本が「伝記」系に偏っている。なぜかよくわからない。気がついたら人物伝ばかりなのだ。最初は津野海太郎「花森安治伝」。これが面白かった。次は「天才・勝新太郎」。本が売れた理由がよくわかった。そして藤圭子を描いた沢木耕太郎「流星ひとつ」。その後は大王製紙前会長・井高意高バカラ106億負け男の「熔ける」(タイトルもいいし内容も悪くない)。ホリエモンの「ゼロ」も並行して読んでいる。今年はバタバタしているばかりで事件やニュース報道の裏側をじっくり考えるヒマがなかった。その反動からだろうか、あの時、あの人物はどんなことを考えていたんだろうか、と舞台裏を本に求めているのかもしれない。単純に懺悔や暴露本って読み物としてはサイコーに面白いジャンルということもあるが。

12月25日 忘年会も昨日ですべて終了。いろいろお世話になりました。大過なく年の瀬にうまいお酒が飲めるというのは幸せですねえ。健康でいれば苦しいことだけでなく楽しいこともめぐってくる。60歳を超えると、そんな当たり前のことを感謝して朝目覚める日々だ。恵まれたお年寄りは、障害を持って生まれた人や不幸のどん底にいる人に手を差し伸べてやる義務がある。なのにこちらはいっこうに見苦しい「自己愛」から脱却できずにいる。もう少し他者へのいたわりが必要だ、とはいつも胸の内にいるもう一人の自分が発している「声」なのだが、聴いても聞かなかったふりをしている。いつになったらその声と向き合える老人になれることやら。

12月26日 なんだか年の瀬という感じがしない日々。毎日が忙しく、ものすごいスピードで過ぎていく。今年に限ってなのだろうか、「年末」という意識が希薄だ。今日は師走の街に出かけ、振り込みなどすべての正月休み中の作業を済ませてきた。もういつお正月休みになっても大丈夫。久しぶりに街に出ると、道は渋滞、店内は混雑、人は殺気立って、こちらもイライラ。銀行もスーパーも駅前も飛行場も、この時期になると必ず用事があるから、行かないわけにはいかない。人ごみは嫌いだ。「風邪」の危険性が増大するのもいや。近くに咳する人いれば、すぐさま場所移動をする。家ではカミさんが数日前からゲホゲホひどい咳をしている。家にはいたくない。いつうつされるのか気が気でない。うがい薬も買ってきた。なんだか喉の奥がいがらっぽい。やばいなあ。

12月27日 堀江貴文著『ゼロ』は示唆に富んでなかなか読ませる。塀の中で彼が渇望したのは「働きたい」という1点だった。これが本の答えであり、著者の言いたかったことのすべて。「働く」ことを、自分のライフワークだという本のテーマは、ちょっと珍しい。もちろんビジネス書ではない。それほど底が浅くはない。なぜこの人が時代の寵児になり、世間を敵に回すように憎まれたのか、この本を読むとよくわかる。「働く」ことを基軸にして読み解けば、それほど特異な内容ではないが、実によく共感できる。バカラで106億円すった大王製紙前会長・井川意高の懺悔録『熔ける』とは似てるようで、似ていない。幼児体験の環境が真逆で、親との距離を測りあぐねて悩むあたりは同じだ。いずれにしても幼児体験に大きな伏線がある。東大に入るモチベーションが全く同じなのは笑える。東大って親への復讐のために入る学校なのだ。井川はともかく、福岡の普通の家庭に生まれ育ったホリエモンの「親との距離感」はその後の人生を決める。「働く」ことの幸せにあふれた本。
(あ)

No677

やさしさをまとった殲滅の時代
(講談社現代新書)
堀井憲一郎

 いまはやりの時代論である。流行と言ってしまうのは失礼か。1年単位の年号で区切って事件や時代の空気をあぶりだす本も多く出ている。よくわからない現象だが時代論がブームなのだろう。けっこうそうした本を買い求めているから私自身もショート・レンジでできる時代分析に期待しているのかもしれない。書名からはわからないが、本書は00年代(2000年から2010年)の10年を論じたもの。書名が秀逸だ。「殲滅」というきつくて暗い言葉を、こんなに軽やかに流用できるのは才能以外の何物でもない。と同時に読み終わって、なるほど00年代なる10年間は「やさしそう」にみえて、大きな価値や変革をまとった「殲滅」の時代だった、と気付かされる。著者に言わせればこの10年間は「何も期待されない10年間」だった。べつだん何が起きたわけでもなく、取り立てて印象的な出来事も思い出せない。凡庸な10年そのものだった。しかし、微細に見ていくといろんなものが大きく変わった時代でもあった。それは過去にも例のないほどの静かな地殻変動だ。圧倒的な変革が、地下で静かに貫かれた時代だった。ただ、その暴力的なまでの変化は、いちいち言葉にされなかった。この時代で入れ替わった世代は、これからの時代を変えていく。

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