Vol.690 14年2月8日 週刊あんばい一本勝負 No.683


規則正しい8時間労働の日々

2月1日 なんとなく身体が要求しているような気がして河辺にある「ユフォーレ」までストレッチに出かけた。トレーニングルーム使用料は200円、その後温泉に浸ってくる予定だ。このところ妙に体調がいい。一昨年あたりから悩まされていた首筋の冷えがすっきり消えた。体重もまた少しずつ落ちはじめた。お正月に体調を崩してから酒量を減らし、山行を控え、栄養と休息をたっぷりとることを心がけてきた。どうやらこれが功を奏したようだ。災い転じて福となす。なにがプラスになるか分からない。この勢いを維持すべく、この際ストレッチで身体の隅々までリフレッシュしてみよう、と思い立った次第なのだ。できれば週1で通いたいところだが、そううまくは行かないだろうな。

2月2日 2週間ぶりの山行は、今が旬の森吉山樹氷ハイク。恒例の行事だが、里は雨なのに山中は猛吹雪だった。まったく視界が効かず観光客用コースを2周して下山。夜は駅前の居酒屋で学生H君と食事。初めて入る店だったがサイドメニューをみてビックリ。うちの本の画像が何冊かきれいにプリントされていて「貸出します」のコピー。県外客御用達の店で、彼らへの気の利いたサービスのつもりらしい。著者権者のためにも抗議をすべきなのだろうが、これはもう現代の商行為の常識になりつつある。たぶん異議申し立てしても、抗議の意味がわからない可能性のほうが高い。一度購入したら自分のもの、あとはどう使おうと勝手、と信じているのだ。これじゃ書店も作家も版元も消えていくのは当然だ。

2月3日 年初めにその年の目標のようなものをボンヤリとだが決める。それが慣例だったが、今年はいきなり体調を崩し、おまけに去年からのバタバタが続いて、なにも定められぬまま1月は過ぎ去り、2月を迎えてしまった。そして今日、寝床で「今年はすべてのスリム化を!」という標語を思い付いた。ここ数年やっていることで、目新しいことではない。その作業に今年中にある程度のめどをつけよう、と思い立ったのだ。身辺のすべてをダウンサイジングし心身ともぜい肉をそぎ落とす。新しいことは何もしない。徹底的に後ろ向きで、後始末のイメージに近い。いろんなものをリセットして、その後に見えてきたものとだけ向き合っていく。そこからしか未来は見えてこない。

2月4日 何人かの、数年前まで年10本近い新刊を出していた人気作家の名前を、最近聞かなくなった。と気がついてアマゾンで検索すると、驚いたことにほとんどの人がキンドルで電子本をガンガン出版しているではないか。そうか、そういうことだったのか。楽天の電子書籍端末コボは買ったものの、本のラインナップのあまりのひどさ(幼稚さ)に、とても利用する気になれなかったが、キンドルのチェックまではしていなかった。そうか作家たちはキンドルに逃げ込んでいたのか。急いでキンドルを買いに走った(1万円弱)。いま、その作家たちの最新作を読んでいるところだ。値段は300円前後、もちろん電子書籍でしか読めない新刊だ。紙本に比べると文字数が圧倒的に少ないし、まだコンテキスト(本文以外の音や画像といった付録的な要素)にまで配慮できていない段階だ。これで食べていけるんだろうか。彼ら(作家)の収支決算を知りたいところだ。

2月5日 若いころから仕事に追われてきたので四季の移ろいには無頓着だった。還暦を越したあたりから、節気に少し敏感になった。なかでも立春の声を聴くと、なぜか心がビビットに反応するようになった。年をとって寒さが堪えるようになったせいだろうか。「もうひと頑張り、あとは雪も日々消えていく」と希望的な未来イメージを思い描ける境界線が、立春なのだ。逆に立春前までに降る雪や寒さは不安と絶望の象徴だ。なぜこんな場所に生まれ育ったのか、雪の降らない場所への怨嗟が募る。それが立春を境に、どんな大雪も「春前のコケおどかし」と妙に余裕を持つって、上から目線で見ることができる。たかが節気なのに、雪国に生きる人々の精神にとっては大切な「ハレの行事」になっているのだ。その立春を今年もどうにか迎えることができた。

2月7日 たぶん社会に出て初めてだと思う。このところ毎日5時半にはきっちり仕事を終え、家に帰る。ほとんど「夢」にまでみた公務員生活だ(うそ)。朝8時半に仕事開始、夕5時半には事務所の明かりが消える。忙しくてもヒマでもこのサイクルは変わらない。お昼の時間も30分以内で、あわただしい。昔のようにソファーに寝転んで本を読んだり、うたたねするヒマもない。8時間フルにやることが詰まっている。この8時間が頭や身体のフル稼働できる、いわば緊張の持続する限界なのかもしれない。5時になると、もう心身とも疲労感がかなり溜まってヘトヘトだ。それにしても自分のいい加減半生のなかで、こんなにも規則正しく、充実感のある時間が、晩年に待っていようとは、さすがに想像だにしなかった。40年間の社会生活で、もしかして今が一番充足感のある時間を過ごしているのかもしれないナ。
(あ)

No683

昔はよかったと言うけれど
(新評論)
大倉幸宏

 この本の広告を新聞で見かけたとき、「やられたッ」というのが第一印象だった。こんな本が読みたかったし、自分でも書いてみたかった。もちろん、無明舎に持ち込まれれば、すぐにでも出版したテーマだ。書名でわかるように今日起きている様々な社会現象を歴史的視点に立って、その真偽を冷静に分析したものだ。「むかし」は「いま」よりすばらしかった、という根拠がありそうでなさそうなテーマを丹念に昔の新聞記事を拾いながら固定観念を崩していく。目次を見ると、その内容がよくわかる。すぐにもでも読みたくなる目次のラインナップだ。「駅や車内は傍若無人の見本市」「公共の秩序を乱す人々」「誇りなき職業人たちの犯罪」「繰り返されてきた児童虐待」「すでに失われていた敬老の美風」「甘かったしつけと道徳教育」といった具合だ。古き良き時代と疑いなく礼賛される戦前の日本は本当にマナーやモラルの優れた人たちの集合体だったのか。そんなはずはない。そのことの論証を当時の新聞記事や事件に求め紐解いていくのは痛快だ。当たり前の話だが、今も昔も道徳心や社会的犯罪の凶悪性、幼児虐待は、ある特定の時代を境目に急速に変わったわけではない。修身や軍国教育の存在した昔のほうがひどかったことも多くあることを本書は余すところなく証明してみせる。結論はある程度予想できたことだが、資料が当時の新聞記事にだけ偏ってしまったのはちょっぴり残念。著者の周辺のお年寄りなどからの聞き書きで肉付けできれば、エンターテインメントとしても楽しめるほんになったのではないのかしら。

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