Vol.822 16年9月3日 週刊あんばい一本勝負 No.814


暑くてひまで台風情報に一喜一憂

8月27日 何も予定のない週末。運の悪いことに(?)昨夜でDM通信編集作業も終了してしまった。というわけでやることはないのだ。台風で延期になっていた外壁工事は来週から始まる。これは業者との打ち合わせは終わっている。新刊ができてくる予定もしばらくはない。それを祝うように今朝、もぎたての「嶽キミ」が青森の印刷所から届いた。近隣の人におすそ分けしても1週間は食べ続けられる。トウモロコシは大好物、いくらあってもうれしい。

8月28日 黒岩比佐子の『伝書鳩』は子供のころハトを飼っていたので難しい記述もスイスイ頭に入ってくる。わたしたちガキは地上に降りてエサをついばむハトを「ドバト」と言って軽蔑した。これは「土鳩」のことだと思ってばかりいたが、神社仏閣の堂内にいる「堂バト」が語源だった。フランスでハトは御馳走なのにグルメの日本人が食べないのは、この神社仏閣に棲む動物という信心が足かせになった、という説は新鮮だ。軍事目的に使われることも多かったが、「往復通信鳩」というのには驚いた。鳩舎を二か所設定し、その間を往復するハトだ。常識では考えられないがハトの習性を利用して自由に往復できるように覚え込ませる。この「習性」気になるでしょう。

8月29日 録画しておいた映画『雲霧仁左衛門』を観た。池波正太郎原作、五社英雄監督、1978年制作の映画だ。主演は仲代達也、7代目市川染五郎、岩下志麻、わき役に成田三樹夫や田中邦衛、梅宮辰夫。とにかく濃密なストーリーでひとり一人の人間(悪人)の描き方が重層的で魅力がある。今から40年前、映画はこんなにも深みのあるエンターテインメントだったのだ。群衆シーンでの出演者数も今のものとは圧倒的に違う。エキストラの数が違うので画面の迫力にだんちの差が出てしまう。映画という枠組みの中に他の芸術的エッセンスも織り込んでしまう「総合芸術」という性格が強かった時代の映画で、圧倒された。

8月30日 台風10号のニュースに神経を集中。今日の午後には上陸、明日朝まで「すさまじい」雨が降り続く。天気予報では「怖くなるような豪雨」という表現を使っていた。今週からやる予定だった外壁工事は中止。足場の材料は運び込んだが、組み立てず庭で台風が過ぎるのを待っている。家も事務所も窓を閉め切り、飛びそうなものは事前に処理。用意万端だがたぶんいろんな「穴」はある。災害はそこをめがけて襲い掛かってくる。大きな被害がないことを祈るばかり。

8月31日 台風10号はかすりもしなかった。マスコミの騒動に乗せられてしまった。大船渡のある著者からは「近所の橋が流された」という悲痛な一報が届いていた。でも東北といっても広い。NHKの天気予報を見ながら、あれっ、これじゃ秋田は確実にそれている、とわかるのだが、テレビは東北は一つという視点でしか報道しない。不幸に見舞われなかっただけでも感謝しろ、と言われそうだが、消化不良は消化不良だ。天災はいつも自分の隣りにある。あまりうまく避け続けるともっと大きな壁にぶち当たる。それが怖い。

9月1日 クマ対策にオオカミの糞のエキスを畑に噴霧する方法が青森で実験中だそうだ。そのエキスの名前が「ウルフン」。オオカミが日本から絶滅したのは農家にとって大切な牛馬を襲うようになったからだ。農家に牛馬がやってくる以前、オオカミは逆に畑を荒らす敵であった小動物をことごとく食べてくれる農家の味方で正義の動物だった。神の化身とまであがめている地域も少なくない。女が良いと書いて「娘」、良い獣と書いて「狼」。人間がこの動物に寛容で肯定的だったことが想像できる。「送り狼」というのは男女間のたとえだが、もともとは山で人間に会っても逃げずついてくるオオカミの人なつっこさから生まれた言葉だ。オオカミが里山にいるかぎり小動物もクマもシカも畑には出てこない。昔の人はそう信じていたし、それが現実だったようだ。北海道ではオオカミを野に放ってシカを駆逐する方法が真剣に検討されているとも聞く。

9月2日 身の回りのものを処分する「捨て魔」はまだ続いている。今週は靴類とステレオを処分。靴は10足くらいか。長年自分のサイズと信じて疑わなかった26.5cmでは窮屈で最近27cmに変えた。登山靴で痛い目にあっているせいだ。窮屈な靴はすべて処分することにした。ステレオはシャチョー室の大きなイギリス製のスピーカーを処分。ポータブルな安物に買い替えた。このスピーカーは40年前、オーディオに詳しい友人に「稀代の名器」といわれるままに20万円弱で買ったもの。でも聴くのは朝のNHKFMのみ。場所塞ぎで宝の持ち腐れ。高価なものなのでさすがに捨てる勇気がわかずヤフーオークションに出品、なんと5万円で落札。やってみるもんですね。
(あ)

No.814

スマホ断食
(潮出版社)
藤原智美

 書名がいい。著者は芥川賞作家だが現代社会に異議申し立てをするエッセイも少なくない。前作の『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』も読んだし、その前の『暴走老人!』も真正面からの辛口社会時評だった。申し訳ないが小説は読んだことがない。本書は、最近はやりのミニマリスト(シンプルな暮らしを好み部屋にないも置かない)たちも、その実物を捨てることで生まれた心の隙間を「デジタル情報で埋めているだけ」と容赦ない。モノよりも情報を優先し、形あるものを統合して、小さく扱いやすくする。これがミニマリストの本質だ。ネットとデジタル情報依存を促進する結果は目に見えている。本書のエピソードで最も印象に残ったのはアメリカの話だ。ある女子高校生のもとに「妊婦用のクーポンDM」が送られてくる。娘に妊娠を奨励するようなDMに親が抗議すると、実は娘は妊娠していた。クーポン会社は娘が毎日使っているカードの買い物履歴データから、妊娠の兆候を発見、早速DMを送りつけてきただけなのだ。この話は説得力がある。我々はデータで分析され目に見えない誰かによって監視されている。さらにスマホ命の若者たちの自己愛は、ネットの「祭り化」によって加速される。渋谷駅前の交差点でハロウインやサッカー観戦後に見知らぬ人同士がハイタッチする光景に、著者はネットを使った若者たちの祭りをみる。その祭りには若者たちの孤独が冷え冷えと横たわっている。熱狂が過ぎ去ると監視されることの不安が頭をもたげる。若者たちはスマホを見ているのではなく、あなたがスマホに覗かれているのだ、と著者は主張する。

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