Vol.974 19年8月31日 週刊あんばい一本勝負 No.966


チョー忙しい1週間

8月24日 「天の戸」の杜氏・森谷康市さんのお別れの会。彼のデビュー作となった『夏田冬蔵』を出版したのが1995年。「ものすごい才能のある杜氏が浅舞に入る」と教えてもらいノコノコトと会いに行った。若すぎる死だ。会場には350人ほどの参加者。送る会は笑いの絶えない、気持ちのいいものだった。

8月25日 大曲のインターチェンジ付近に「鹿出没注意」の標識がたっていた。国土交通省が設置する道路標識には正直なところかなり不信感を持っている。「カモシカ注意」の標識は誰がどう見ても「ニホンジカ」の絵だ。描いた人間が「ニホンジカ」と「カモシカ」の区別がついていないのは明らかだ。クマもそう。秋田には絶対にいないはずの「ヒグマ」の絵が標識として描かれている。ところで秋田県内レッドデータブックは「絶滅種としてきたニホンジカを来年から絶滅種からはずす方針」だそうだ。

8月26日 週末には大曲の花火があり関西から10名のお客さんが来秋予定だ。仕事は頓挫しそうな企画を2,3本抱えている。気を許せない局面だ。そんな気ぜわしい月末なのだが「やってはいけないこと」に手を染めてしまった。作家・原田マハに「ハマりつつある」のだ。昨夜はほぼ徹夜状態で『楽園のカンヴァス』(新潮文庫)を読了。ちょっと劇画チックのところもあるがモマ所蔵のアンリ・ルソー『夢』をめぐる美術史ミステリーで、夢中になるおもしろさだった。次に読む新刊の『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)も購入済みだ。こちらはゴッホをめぐるアート小説で、これもできれば今日中にも読んでしまいたい誘惑に駆られている。

8月27日 朝から男鹿出張。ここにある寺院の「寺院誌」の編集・出版を依頼されたので、その打ち合わせだ。よく男鹿三山に登るのだが山中に何体か首の落とされた仏像が苔むしたまま放置されている。明治政府の廃仏き釈という神道国教化政策のために首を斬られたものだ。ご住職はご高齢で、自分の代でちゃんとした歴史を檀家や子孫に残して置きたいという。少し時間がかかりそうな仕事だが、いい勉強の機会かもしれない。真正面から四つに組んでみるつもりだ。

8月27日 中高の美術の授業で習ったマネやモネ、ルノアールにゴーギャンにゴッホ……現在、名画と呼ばれるもののほとんどが「印象派」の画家だ。これは19世紀後半のパリに突然現れた新人類芸術家たちのこと、ぐらいの認識しかなかったのだが、原田マハ著『たゆたえど沈まず』を読んで納得。ようするに「写実」を唯一無二の美の基準とする従来のパリ画壇から「逸脱し、反逆し、汚らしい」(あるいはサロンと呼ばれる官展に落選した)、どうしようもないアヴァンギャルトな作家や作品に与えられた「蔑称」が「印象派」という言葉だったのである。19世紀後半のパリ画壇でもマネやモネたちは、いわれない脅迫と差別を受け、画廊ですら作品を扱ってもらえなかったという。

8月28日 ブラジルアマゾンの熱帯雨林火災が毎日のように報道されている。半世紀前まで農業であれ牧場であれ林業であれ、アマゾンではジャングルに火を放つのは当たり前のことだった。密林を焼いて「平地」を作るのだ。日本人移民もそうやって密林に火を放ち、できた隙間にコメを植え、カカオやピメンタといった換金作物の畑を少しずつ広げていく。それが80年代に入って世界的な自然保護運動の高まりのなかでアマゾンの「山焼き」は消えた。のだが「ブラジルのトランプ」ボルソナーロ大統領の登場で一転。開発にゴーサインが出て、農林牧業者たちは競って密林に火を放つようになった。だから人為的、政策的な火災なのである。

8月29日 去年に続いて今年も関西の友人たち10名が大挙して来秋。ツアーコンダクターは私。車のドライバーはいつものベテランFさん。去年とは違う秋田を見てもらいたいので「もう一つの秋田」をテーマにこの1年間いろいろ考えてきた。のだがこれがなかなかむずかしい。今回は初参加でサントリーのチーフブレンダーで世界的に有名なKさんもいるので、こちらも少し緊張気味。

8月30日 ツアーの人たちから玉川温泉を見てみたいというリクエストがあった。途中の田沢湖でランチ。玉川を見て渋滞地獄の大曲へ。10人を花火会場に案内して、Fさんと私はそそくさと人の流れに抗って秋田市に帰ってきた。これはこれで快感だ。今年の花火は新趣向というか去年とはずいぶん違う印象だ。演出家が変わったのだろうか。
(あ)

No.966

ことば事始め
(亜紀書房)
池内紀

 本書の中に印象に残る文章がある。「老語の行方」と題するコラムだ。某大新聞社の編集局長だった人物が退職後、地方新聞社に相談役として天下った。取材のためその人物に会った時の話だ。ダンディなその人物は、過去に親交のあった有名人たちを呼び捨てにし、栄光の昔語りに夢中で、編集局長時代の自慢話をとうとうと話し続けた。この人物の語りを著者は「老語だ」と切り捨てる。生きてはいるが老いた言葉だ、と。肉体の老いは鏡が映し出すが「言葉の老い」は自分でも気付かない。首に巻かれたおしゃれなスカーフで言葉の老いは隠せない。  確かにこの手の昔エリート、おしゃれ感を漂わせた都会的ジャーナリストに私も何人か会った経験がある。こうした批判的人間観察の鋭さが著者の真骨頂だ。「「ふるさとまとめて花いちもんめ」という歌の解釈も面白い。「花」というのは娼家の花代、「いちもんめ」は金の単位で「まとめて」は「捨てて」だから人身売買の歌、というのは知らなかった。「自のつく字」というコラムでは「誰も聞いていないアジ演説をして、自決した小説家がいた。自尊心の強い自信家だった」と書く。この批判精神がいいよなあ。

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